2023年5月21日(日) 【5/21(「6・19」を止めた理由_その7)】 5/21(「6・19」を止めた理由 その7) 2013年に6回目をどこで開催するか、そしてそれをどんな風なイベントにするか、それを考えるために2012年から13年にかけて、色々な人との関わりがありました。それは翌々年くらいまで続いて、結局2008〜2012にかけての僕の周辺にいた人たちとは、また違う人たちが入れ替わっていきました。 本来ならどちらも共に集うことができたら、イベントも更に大きな拡がりを見せていたかもしれませんが、正直言って僕は自分の限界を感じていました。 それまで居た界隈の人たちの考え方に違和感があって、違う人達と交流したわけですから、両方とうまく接するのは難しいし、必然的に一方とは親しくなり、他方とは疎遠になってしまいました。 加えて新しい人と常に関わろうとすること自体に疲弊するようになりました。 ただでさえそんなに人との関わりが好きな方ではないのに、こちらの方からアプローチして意見の違いにもオープンにおおらかな気持ちになって、受け入れながら、こちらの活動に参加してもらったり、協力をお願いしたり。 そう振る舞うこと… それはもう苦行、でした。 日々我慢と忍耐の連続でした。 傍目に見れば、この時期の僕は過去の僕とは別人のように積極的に人と関わっているように見えたかもしれません。でも内面的にはストレスが膨らみきっていました。実際この頃はよく酒を飲むことがあり、また酒を飲むことで、知らない人に話しかけたり、議論したりする勢いをつけていたような気がします。体調はだんだんと不調が増えていきました。 それでも今思うと、そのころもう一つの「6・19」を企画していたグループの人たちと付き合っていなければ、現在のBlowin' new soulの店主の方と知り合うことはなかったし、そこで教師として働いている人や、非常に大きな影響力を持つシンガーソングライターの人と知り合ったりすることが、「6・19」の継続に大きな力になり、それがやがて頓田の森事件についてのもう一つの僕のイベントの立ち上げにつながっていきました。 そして前のライブハウスで知り合った方のうちに、福岡大空襲でご自身が生まれた寺院を被災した浄土真宗のお坊さんがいらっしゃいました。 こちらのお寺で追悼の法要を6/19に行うこときっかけが、僕の「6・19」だったということで、こちらのお寺さんとのご縁もはじまりました。 新聞に載っていた、福岡大空襲とは別の福岡で起きた戦災である1945年8月8日、西鉄筑紫駅付近を走行中の電車を、機銃掃射により一説によると約200人を殺害したというアメリカ軍戦闘機による無差別銃撃事件 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/筑紫駅列車空襲事件を アメリカ軍がカラーで撮影したフィルムを大分県宇佐市の団体が保管しているとニュース。この団体の代表者が、やはり浄土真宗のお坊さんということで、二つのお寺さんをとりもつことはできないか、こちらで映像を観る会ができないか、そう考えて、全く縁もゆかりもないその代表者の方に会いに行くことになりました。 それは結局宇佐市で平和資料館を作るために活動する団体であり、その啓発活動として宇佐市内の戦跡や戦争遺構を巡るピースウォーキングに参加することにつながりました。戦争体験を、歴史を継承する、そのコンセプトを宇佐の街中に、全市的な拡がりを作っている団体でした。こうゆうことをやってのける人たちがいるんだ、と感銘を受けると同時に、自分の活動は全く足元にも及ばないなあと思いました。 そしてその代表者の方から 「自分も活動を始めたころは、周りの人達に理解されず苦しい思いをした。しかし10年間諦めずに継続していたら、急に周囲の人から認められるようになっていった。だからあなたもまずは10年間頑張ってみてください。」というお言葉を頂いたりしました。 「活動する」というのは、よほどストイックに孤立主義を貫く人でなければ、すべからく交流して拡大することを志向するものです。そのことが結局うまくいく秘訣なのかもしれないです。 だけど僕はそういう交流を現在に至るまで継続して深められなかった、それは僕のパーソナリティに反していて、僕の自然体ではなかったから、仕方ないことだと思っていますが、あの時期にそれを試みたことで、 色々得難い経験や出会いや誰かの言葉を頂いたりしたこと、 それはいま振り返ってもありがたく思います。 5/21^09:41 [コメントする] <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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