diary2

2017年8月9日(水)
【8/9】
2009年の2月
私はここを訪ねてみました。

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

http://www.peace-nagasaki.go.jp/index.html






その前にお隣の長崎原爆資料館を見学しました。私は1980年代の初め小学生の時に改築前の旧い原爆資料館を見学して
その展示物と原爆のもたらした被害の惨たらしさが心に恐ろしい傷のように残りました。それに比べ改築された現在の資料館は、展示内容というより展示の仕方が変わり、あまり恐怖感を感じずに観れました。それがいいことかどうかは別にして。

しかし館内の映像コーナーで上映されていた映画は、昭和40年代後半に制作されたもので、昭和の原爆関連作品の
表現の特徴である、「オブラートには包まない」リアルな恐怖に満ちていて、

思わず「わああ」と叫びながらそこから逃げ出したくなりました。

原爆関連資料の展示の昭和と平成の
違いを感じた後、この平和祈念館に
入りました。

犠牲になった方お一人お一人の
肖像やお名前の記録を残した祈りの館。
とても静謐と安らぎに満ちた
荘厳な雰囲気です。

しかし一人ぼっちで入館し、長崎原爆で昭和20年に亡くなった7万人、戦後60数年間で亡くなった7万人をあわせた14万人の方々の魂を感じようとするというのはそれだけでものすごい悲しみと
寂しさと圧迫感に襲われるのだと
知りました。

ふと私は爆心地周辺の当時の住居表示図を見ながら、自分のように独身で被爆をした男性もいたのかな、などと考えていました。

すると現在の爆心地公園のすぐ側にあたる場所に「岡村」という家があることに
気づきました。調べるとその「岡村」さんは独身の男性でパン屋さんを経営していらしたということでした。

どういう人生があり、軍隊へ取られることがあったかなかったかもわかりませんが、長崎の松山町で朝早くからパンを焼いたりなさっていたのかもしれません。
物資の不足で思うように焼いたりできなくなっていたのかもしれません。

そして11時2分、すぐそばの上空で
原子爆弾「ファットマン」が炸裂したのでしょう。

私は「岡村さん」を考えていました。

なんでパン屋さんの、岡村さんは
そんな目に遭わなければならなかったのかと考えていました。

なだらかな浦上の坂道をゆっくり歩きながら、長崎駅の方へ戻りながら、
ずっと考えていました。
福岡に戻る道すがら
ずっと考えていました。

ひょっとしてあの日の長崎には
これをお読みいただいているあなたと
同じ名前の、あるいは
遠くあなたに繋がる
誰かの姿があったのかもしれません。

そして
すべての
それらの長崎の人々が
あの日の原子爆弾の被害に
なぜ遭わねばならなかったか

誰一人納得できる理由はないのです。


8/9^17:44
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