diary2

2023年6月11日(日)
【6/11 最終回(その2)】
6/11 最終回(その2)

たとえば戦病死した、ある兵士の最期の日々の病床日誌は、あまりに救いがないので遺族も最後まで読み通すことができないまま、80年近く仏壇にしまわれていたのだという。
たった7歳で空襲で四人の家族を殺されて、亡骸を荷車に載せ、学校のグラウンドで荼毘に付した少年の回想。荷車の部品。

昨日6/10(土)
福岡県の退職教職員組合などが主催の
平和祈念資料展を
東区筥崎宮参道そばにある福岡県教育会館に観にいきました。
今日11日(日)の15時まで、入場無料ですのでお近くの方はぜひ。

もう10年以上開催されているこの展示会。そして教師の方々はいろんな意味で戦後の平和教育を先頭に立って常にリードしてこられたと思うのですが、現在でもこれだけの熱意をもって、次世代の若い教員たちにもバトンを渡していくべく活動を行っていることに、強く胸を打たれました。

そして物言わぬ展示品から伝わってくる亡くなられた方の無念や奪われたご家族の慟哭。
この悲しみの行き先はどこにあるんだろうと考えていました。
僕たちはこの悲しみから何を感じ取り、それをどう表現するか、そして
戦争がこのような悲劇を生み続けることを人類の経験としてこれほど学んできても、国家が戦争をしようとすることに抗えないのはなぜか、どうすればいいのか、これから自分にとって一番重要なことは、きっとその問題に対峙することだと思うのです。
最終回としてそのあたりを掘り下げて
書いてみたいと思います。
(続きます)

突然ですが、本当に突然に話が脱線してしまうようで申し訳ないですが
数年前にこの福岡市の割とど真ん中に
被差別部落とも称された町があったことを、その歴史はなんとなくうやむやな決着の付け方がなされて今に至っていることを知りました。つまり名前を変え新しい道路を作り建物を壊し建て替える、そういう区画整理の事業を行って、街の外観が変化するうちに、差別の歴史が勝手に忘れられていけばいい、そこに住んでいた人は住み続けるなり出て行くなり好きにすればいいというかのような…。
まるで歳月の流れの中で透明な秘境にされてしまったようです。
僕はその街で150年前に起きたある事件を歌にしてみようとして色んな文献を調べていました。

そして福岡市史を読んでいたら、その被差別部落と呼ばれた町の住民の方が食肉解体、精肉の工場で働いている様子を聞き書きしたものが、掲載されていて(ちなみにこれはその地域の人がほとんど全てその業種で働いていると意味では全くありませんので、ご注意ねがいます。ちなみに最も盛んな産業は皮革加工や靴や履物や太鼓の皮の製造業だったようです。)

そしてふと思いました。この福岡の全ての人の食の為に毎日どれほどの食獣が殺されるのか、そして原型がわからないように解体され精肉され、調理される。
それは人類が日々を送っていく為に必要不可欠な営みで、その営みに依拠する者がその道徳性などを口にするほど醜い偽善はないという、僕から切っても切り離せない業があります。

でも僕が朝晩ハムやベーコンやチキンを食べながら、日本の過去や世界の今の戦争のボディカウント(死者数を調べる)をしているとして、毎日屠殺される獣たちの頭数はどのくらいかと調べていないということをふと気付いてみると、こんなおかしな事はない、と思いました。

そして今も朝晩誰か食肉産業に従事する人たちが、全ての市民の代理で、動物たちを殺す仕事をしている。もちろん福岡で処理された食肉だけが、市中に出回っているわけではなく、海外や国内のあちこちから殺された動物の肉が加工されて運ばれてくる。

いきなりぶちこんだ挿話の意味は
別に毎日何万の獣を自分の手を一切汚さずに誰かに屠る仕事をさせて、その肉を食べる人が、戦争の悪を語るな、ということじゃありません。

やはり戦争をなんとかやめたい、起きないように、起こさせないようにしたい、だからって備えという口実で武器を大量に作って買い付ける政府のやり方を変えてみたい、その動機もその為の行動も努力も大事なもの。

でもそれと同時に毎日膨大な命を殺していること、それで自分も生き延びていることを思い出すのは無意味ではないと信じます。

だから単純な僕が善で、君は悪で、とか、こっちが善であっちが悪というような二項対立で非戦や戦争反対や平和主義を唱えてもいつまでたってもそれは実現しないでしょう。

戦争を繰り返し
残酷に人間を殺し続けるのも人間で
なんとか非戦を訴えて、対話や外交を繰り返し、和解や共存の道を何度も何度も失敗しながらも探すのを諦めないのも、やはり同じ人間の両面です。そう思います。

つまり戦争を必要とする人を悪だとか
戦争を否定する自分を善だとか、そんなことで、戦争に反対していくということではなく、結局自分はどっちの世界でこれから生きたいのか、どっちの世界での死に方を選ぶのかというところから、戦争は嫌だと、やめてくれと、軍隊も基地も武器も要らないからと言おうと思います。その為の動き方として自分にどんなやり方があるかを考えて実行していく、ということです。

(続きます)

よくよく考えたら、かつてと違い食肉の流通の仕組みも様変わりして、ひょっとして、福岡県内で消費されるほとんど県外や近隣の国で製造されたものかもしれないですよね。
かといって肝心なところが変わったわけではない。都会の市民は毎日大量の肉を食べ、あるいは食べきれずに廃棄されていくものもある。その肉のために、ひょっとしたら売れ残り捨てられるためだけに屠殺されていく命があるかもしれず、それはどこかで誰かがやらされている仕事です。

かつて場所や身分で差別する被差別民が、社会的に制度的に作られたと同じように、現代では雇用や所得の低い人たちが固定化されて(そこには技能実習などという口実で送り込まれる外国人の若者も含まれます)新しい貧民層として一握りの富裕層が設計する「新しい資本主義」社会(そんなもの資本主義の元々の醜悪な姿でしかないですが)

資本主義は富と利潤の反作用として必ず「貧困」を生み出し、その引き取り手である貧しい人々を作り出します。
そして優遇措置や租税の差異が、人々をさまざまに分断し、お互いを嫉妬や不信にそれがエスカレートすれば蔑視や憎しみへ追い込みます。
そういう最も虐げられる層に一番血なまぐさい仕事が押し付けられ、新しい「被差別民」が事実上再生産されていきます。

結局戦争というのは、経済を左右する富裕層たちの意のままである国家がより富を求めて、あるいはそれを奪われることを恐れて、多くの階層化した国民同士の憎悪を煽って、ころしあいをさせる、全く持って人工的な陰謀的なうさんくさいものだと思います。
本来の政治はそういう国家を作らせない為にあるもののはずが、日本では選挙制度を悪用しコントロールする術を確立した一部の勢力に10年以上かけて
破壊されてきました。
結局、「戦争を繰り返さないでください」と声を上げても、繰り返そうとする人々の権力に抗議して、抵抗することをしなければ、現状は変わらないのです。

じゃあ僕やあなたが一人や二人で
立ち上がってもすぐに潰されて、社会的に抹殺されるだけ、やるだけ馬鹿じゃん、と感じる人もいるかもしれない。
これが今の日本社会を覆う政治への無関心の根本にある虚無感かもしれません。
だから潰されたら、どうしてダメなんですか?
変えられないで終わったら、どうしてダメなんですか?

諦める人が増えれば増えるほど、世の中をコントロールしようとする人々はやりやすく、チョロいな、と感じるのです。
失敗しても潰されて、狂ったり死んだりしても、それでも抗議し、抵抗する人々が現れてくると、権力は動揺して、徐々にですが弱体化したり変質していく可能性が出てきます。

だから抵抗や抗議をやることは
絶対に無駄ではないと
僕は考えるようになりました。
世界のあちこちの社会運動や
歴史的にも近代史で
徹底的に否定され弾圧された
反体制運動、それは自由民権運動だったり、労農運動やアナキストや共産主義者や社会主義者、戦後の学生運動や安保反対運動や最近では脱原発やSEALDsなどの市民運動がありましたが、それらは御用メディアに攻撃誹謗され、無力化、否定されても、事実は
確かに権力に動揺を与え、長い目で見ればより民主的な政策転換を勝ち取ることができた、原動力であった。そういうことを文科省の教育やメディアの偏向報道に騙されず、自発的に学び直しできるようになれば、意識も変わっていく。
だから一人でも、二人でも
始めていく。
なんらかの抗議や抵抗、異議を申し立てる。
これから僕が残った時間をかけて
できるとしたら
そんなものの中に展開があるといいなと考えているのです。







6/11^05:16
[コメントする]


<<重要なお知らせ>>

@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
@peps!・Chip!!は、2024年5月末をもってサービスを終了させていただきます。
詳しくは
@peps!サービス終了のお知らせ
Chip!!サービス終了のお知らせ
をご確認ください。




w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
++新着日記++